2024年08月22日
おもう・・・思う 想う 念う
全部「心」がつくんですね…
思う…「田んぼをおもう心」???
想う…「誰かの相(すがた)をおもう心」???
念う…「今をおもう心」???
それぞれの漢字がどういった成り立ちなのか?
今度きちんと調べてみます…(o_o)
さてお恥ずかしながら
実はこの歳になって初めて知ったのですが・・・
お盆の少し前にこんな詞に出会いました…
"かくまでも
醜き国となりたれば
捧げし人の
ただに惜しまる"
これは
ある戦争未亡人が晩年に詠まれた詞だそうです
命をかけて戦ってくださった方々は
現在の日本の相(すがた)や
現在の私たちの暮らしぶり
現在の私たちの精神性を
どのように見ていらっしゃるのだろう?
そんなことを思い巡らしながら
今年のお盆を過ごしました
盂蘭盆会の法話では
あまり多くを語りませんでしたが…
私の祖父の兄は戦死しています
その妻は戦争未亡人となった話も聞いています
祖父がその兄の写真を
ずっと枕元に置いていたことを知ったのは
祖父亡き後
祖父の部屋を掃除していた時のことでした…
祖父はどんな想いで
ずっと写真を飾っていたのだろう?
もう居ないので聞くことは叶いませんが
いつか浄土で会うことができたら
聞いてみたいと思っています…
また20代の頃
鹿児島県の知覧特攻基地へ行ったことを
思い出しました
そこで見た10代の少年たちの直筆の文字に
畏敬の念と申し訳ない念いを抱きながら
涙が止まらなかったことを思い出しました
やりたいこともいっぱいあっただろう…
将来への夢や希望もあっただろう…
悔しい念いや恨むような念いもあっただろう…
そういった念いを断ち切って
家族と国の幸福を願い
飛び立って行った特攻隊の少年たちの想い…
もちろん特攻隊員だけでなく
命を賭して戦った方々全ての想い…
未来の私たちを
想ってくださっていたのだろうと拝察すると
上記の詞がなおさら
重みを増して感じられました…
"供養(くよう)"とは
亡き人が喜ぶこと(生き方)をすること
だと私は思います
亡き人の好きだったものをお供えしたり
法要を営むことはもちろん大事ですが
亡き人を想う
その心があってこその
お供えであり法要だと思います
想うことによって
亡き人と繋がり
心の中で会話して
今の私をどう見ているだろうか?
私がどんな生き方をしたら
亡き人が喜んでくれるだろうか?
と思い巡らしながら日々を暮らす
亡き人には会うことができなくとも
すぐ側で見ていると思って
亡き人が遺し伝えてくださったことを
たいせつにして生きていく
そういう暮らしが"供養"だと思うのです
だから毎日手を掌わせる少しの時間が
とてもだいじです
「醜き国」の「国」とは…
「国」は人が創造しているのだから
人そのものであり
その国に生きる人の精神性であり
その国に生きる人の生き方であり
その国に生きる人の暮らしなのだと…
「人」はすなわち「私」であると…
自戒の念を覚えます
"今"を生きる私たちの"心"に
亡き方々(諸仏)の念いが
発信されているのでしょう
それを受信した(知った)私は
この詞を忘れることのないよう
生きたいと思います
【2023年】
【2022年】
【2021年】
前田健雄(まえだたけお)
真宗大谷派一心寺住職。
1977年名古屋市生まれ。
大谷大学大学院文学研究科仏教学専攻修士課程修了。
真宗大谷派ハワイ開教使として5年間ハワイに赴任。
NPO法人ほがらか絵本畑の理事。
名古屋刑務所篤志面接委員