一心寺の歴史・沿革
人や車の往来激しい八事交差点。昔は住む人もまばらな場所だったそうだ...。
そんな尾張名古屋の東の玄関口、飯田街道沿いの地に湯豆腐の「近江屋」という店があった。
湯豆腐の評判は良かったようで、庭には立派な藤棚もあったそうだ。
明治時代、近江屋五代目の妻 (せい) は、 主人に先立たれた後、養子を迎えて、実家の姪をその嫁とした。
姪夫婦に商売を任せて、せいは浄瑠璃にはまった。喜楽を分かつことが好きな人情家だったようで、店の座敷は多くの人でたいへん賑やかだったそうだ。
しかし人情語りの浄瑠璃の場が、いつの間にか僧侶を招いて仏法聴聞する場へと変わっていったのだった。仏法聴聞の法座が開かれると、遠近を問わず、浄土真宗の門徒が集まることとなり、遂には別の場所に建物を設けて、法座専用の説教所を運営することになったのだ。
親鸞聖人を慕い、敬い、仏法聴聞に励む浄土真宗の門徒(東・西本願寺、高田派)が合同で設立に尽力した仏法聴聞の説教所は、明治三十三年 「石坂会所」として開かれたのだった。
その後、昭和三十七年、代々の篤信の血を受け継いだ治雄(住職の祖父)が初代住職となり、真宗大谷派の許しを得て「即得山 一心寺」と公称することとなった。
毎月十二日に行っている定例法話は、二代目:和丸(住職の父:釋和音)の昭和・平成の時代にも欠かさず勤め、三代目となった今も、一心寺の伝統・いのちとして勤め続けている。
本堂に座って、心安らぎ元気を得て「よし!もういっちょ生きてやろう!」と日常へ帰っていくことのできる場を創造することを「近江屋」以来、だいじにし続けている。
阿弥陀如来(あみだにょらい)
「すべての衆生が救われなければ、私は仏とならない」と48の願い(誓い)を立てた仏様。
一心寺の本堂の荘厳に
関わられたアーティストのご紹介
仏像彫刻
1975年生まれ 仏像彫刻師(仏師)
2000年から10年余りの修行を経て独立。
名古屋を拠点に制作活動をするほか、各地で彫刻教室を開講。
一心寺でも毎月彫刻教室を開講しています。
光の切り絵作家
一枚の絵が、光の当て方で2つの表情に変化する切り絵。
また、「うごく絵本」動きとストーリーを加えた、絵本のような映像作品。
そして、「幻灯空間」は、光の切り絵を、砂浜や雪原やお城など
様々な空間に光の切り絵を投影し、いろんな世界に染め上げる。
写真撮影及び写真提供
岡本 憲史
住職イラスト制作
おおた